最終更新日  2002/07/06

人物 松尾 芭蕉
時代 江戸時代(中期)
越後との関連性 おくの細道で越後を通過

「芭蕉のこころ」コース

曾良日記版、越後路の芭蕉足跡を探訪しましょう。

8月12日頃(旧暦の6月28日) 雨
温海を馬で出発、湯本(温海温泉)に寄り、鼠ヶ関へ
義経記では「念種(ねんじゅ)の関と言います。
この日は中村(現山北町北中)で宿泊。


8月13日(旧暦6月29日)
中村から村上へ。大和屋九衛門宅(泊)


8月14日(旧暦6月29日)
村上藩筆頭家老榊原帯刀から金一分を戴く。
(帯刀の父一燈が芭蕉の俳諧の知友でした。この日一行は墓参りをしました。)
さらにこの日、瀬波に連れていってもらいます。

おそらく多岐神社に参詣したものと思われます。

8月15日(旧暦7月1日) 雨
泰叟院(浄念寺)に参詣。
岩船の石船神社にも参詣。ここには句碑二点があります。

それからやや歩いて中条の乙宝寺に立ち寄ります。
ここには句碑二点があります。
この日は築地村 次市良さん宅(泊)

8月16日(旧暦7月2日)
船に乗り新潟へ。大工の源七さん宅(泊)
大工の源七さん宅というのは、「大工源七」という屋号の旅篭屋という説も。
なぜなら、浮身宿は遊女の宿と解釈できるからだとか。

「蓑塚」が本体は宗現寺(西堀)境内にあります。
護国神社には・・・句碑「海に降る 雨や恋しき 浮身宿」があります。
さらに記念碑2点、同じく「蓑塚」と「芭蕉堂」。
この句は後年になって作ったといわれる一句です。

8月17日(旧暦7月3日)
弥彦に入り、弥彦神社参拝します。

8月18日(旧暦7月4日) 晴れ
寺泊に入り、西生寺を参詣しますが、このことは日記に
「弘智法印像を拝むため」としっかり書いてあります。
但し、曾良は「最正寺」と表記しています。
ここには句碑があります。
「みな月や から鮭拝む 野積山」(芭蕉翁句鑑)
但しこの句は芭蕉の作かどうか疑問視されています。
なぜなら、水無月は6月のことで、
芭蕉だったら間違ることはないはず・・・と。

さらに「国上に行く道あり」と記されていますが、
どうやら国上寺(分水町)には行っていない様子です。
しかしこの国上寺はまさに古刹であり、
しかも芭蕉が積極的に訪れている義経の伝説もある寺院なのです。

出雲崎にゆき「銀河の序」の夜を体験。
余談ですが、出雲崎は良寛のお膝元。
芭蕉を尊敬していた良寛は戯句を残しています。
「新池や 蛙飛び込む 音もなし」

さらに余談 このあと芭蕉により出雲崎は有名になり、
十返舎一九など数々の有名人が訪れるようになりました。

出雲崎の宿は大崎屋。「大崎屋と芭蕉園」
この日は夜から朝まで雨でした。そしてここでこの一句
「荒海や佐渡に横たふ天の川」
さらに
「銀河の序」


8月19日(旧暦7月5日) 雨
柏崎へ。天屋惣兵衛宅に宿泊を申し込むのですが、
何やら不愉快な対応をされたらしく、一行は宿泊を断っています。
先方は二回も追いかけて来て、戻るようにすすめるのですが、
ふりきって、鉢崎(現米山町)まで。
この日は、たわらや六郎兵営宅〔泊)

8月20日(旧暦7月6日)
今町(直江津)まで。 古川市左衛門宅〔泊)
ここで「文月や・・・」の句が読まれます。
句碑は琴平神社(安寿姫の慰霊塔)にありますが参詣は不明。
一行は聴信寺では宿泊を拒否されます。
理由は姿がみすぼらしいから・・・!。
柏崎の一件も同じ理由だったかもしれません。
しかしここで番僧は短冊を所望したらしく、
番僧にはこの一行が誰であったか分かっていた様子。
しかしながら曾良が、宿かすこともなき処に無用と腹を立てます。
芭蕉はそんな曾良をたしなめ、一句。
「文月や 六日も常の 夜には似ず」
8月21日(旧暦7月7日) 雨
聴信寺より再三招きがあり、出向きます。
この日は俳諧の集まりのあった佐前元仙宅(泊)

8月22日(旧暦7月8日) 雨
高田へ。高田にて発句

「薬欄にいづれの花をくさ枕」

当時は北陸道は高田藩の管轄で、高田で通行手形を発行してもらわないと
市振の関を通過できないルールでだったのでした。

この日は高田で細川春庵さん宅(泊)

8月23日(旧暦7月9日)
俳諧と歌仙をして過ごしました。

8月24日(旧暦7月10日)
この日も歌仙一回をして過ごしました。

8月25日(旧暦7月11日) 晴れ
直江津に戻り、五智国分寺居多神社に参詣します。

そして能生町の能生白山神社、へ。
この神社は源義経が立ち寄り祈願したところと言われています。
ここで芭蕉は、潮の干満時にひとりでに鳴る鐘があると聞くのですが、
実際にその鐘を見たところ壊れていて
「曙や 霧にうづまく かねの音」を一句(真筆は火災で焼失)。

この日は能生 玉や玉良衛宅(泊)
別の場所ではありますが、玉やは現在も子孫が旅館玉やを営業中。

8月26日(旧暦7月12日)晴れ
いよいよ越後路西端の糸魚川方面へ。
芭蕉は、途中早手川を徒歩で渡る際に、
つまづいて衣類を濡らし干して乾かしたりします。

駒返りを過ぎ、(芭蕉は「駒返し」と表記)市振へ。
ここで越後路最後の一句

「一家に遊女もねたり萩と月」

ここでの宿は市振の宿桔梗屋
でも市振りの句はフィクションとする説もあります。
西行と遊女のからむ謡曲「江口」や
世阿弥作の謡曲「山姥」を下敷きに芭蕉が空想したという説ですが、
実際はどうだったのでしょうか。

8月27日(旧暦)虹がでる
この日いよいよ市振りを出発。
越後史に偉大なる足跡を残して
芭蕉一行の姿はだんだん小さくなってゆくのです。
県外の芭蕉の史跡
山寺(山形県)
羽黒三山神社(山形)
最上川川下り(山形県)
中尊寺(岩手県)
義経堂(岩手県)

 

参考書籍

 宗左近 著『芭蕉のこころ』 ほるぷ出版

 宗 左近氏はこう言います。
「荒海や・・・の一句を書いて、おくの細道の旅はきわまった。そのあとにくるのは当然虚脱である。その委細については書くに及ばない。ただいくつかの佳い句だけをあげておくに止める。」と、この「荒海や・・・」をおくの細道最高の作品と位置付けるのです。越後人の私には嬉しい限りです。

 井沢元彦 著『芭蕉魔星陣』 講談社文庫

 芭蕉には「忍者(隠密)説」というのがあります。おくの細道の道中では、ある人物に書簡を手渡していたり、一般参詣ができない神社に参詣しています。これを誰かの手引きと解釈する説です。その他、歩く速度や距離のこと、経済的背景のこと、出身が伊賀であること、一芸に秀でていることなどもその理由です。

 これはそんな芭蕉の忍者説を逆手にとったようなSF歴史アクション小説です。

『芭蕉奥の細道旅日記』 みちのく観光出版

 山形の山寺の土産物店で購入したお土産用観光地本です。でも以外に分かりやすい優れたものです。

  

『銀河の序』要約・意訳 by藤原朝臣

 『銀河の序』は、おくのほそ道とは別に芭蕉が発表した作品です。ここに芭蕉のおくの細道でのクライマックスが刻印されています。

 窓を押し開き、旅愁をいたわろうとしたら、日は既に海に沈んで、月はほのくらく、銀河は半天にかかって星はきらきらと冴え、沖の方から波の音がしばしば聞こえてきて、たましゐけづるがごとく、腸(はらわた)ちぎれて、そぞろにかなしびきたれば、(この部分原文の方が迫力あります。)草の枕も定まらずに・・・
と続いて、「あら海や・・・」。