最終更新日  2002/03/29

人物 大村益次郎(村田蔵六)
時代 幕末
越後との関連性 官軍の参謀

「花神」コース

高田城(上越)

榊神社(上越)

聚感園(寺泊)

護国神社(新潟)

村松城(村松)

新発田城(新発田)

村上城(村上)


靖国神社(東京)


 
参考書籍

 司馬遼太郎 著『花神』 新潮文庫
 花神とは中国の言葉で花咲か爺のこと。維新成立の決定的瞬間に彗星のごとく登場し、役目が終わったらすぐに散ってしまったので司馬さんはこのタイトルを思いついたということです。そういえば戊辰戦争のコースも北上する桜前線によく似ているかもしれません。

 

当案内所における北越戦争

当案内所においては、北越戦争における長岡戦線を「峠」で、
それ以外を「花神」で取り扱っています。


大村益次郎のエピソード

エピソード1 その人物像とは?!

ある人 「今日は暑いですね〜」
大村  「夏は暑いのが当たり前です」
ある人 「・・・・・・」

ある人 「今日は寒いですね〜」
大村  「冬とはこんなもんです」
ある人 「・・・・・」

エピソード2 その計算能力とは?!

ある薩摩の隊長 「白河までは兵器、兵糧を運搬するのにずいぶん
         費用がかかる。これだけの費用を出して欲しい」

大村 「(中略)〜あなたは無能であるか、しからずんば私利を得ようと
    している。」

    と言って銃の数量と弾薬の目方、人夫の人数、賃金、
    白河までの距離を石板に書き示しながら、

大村 「これだけでよろしい。ご異存があるか。」

隊長 「私に腹を切れと申されるか!」
    (無能と辱められたこと、または私利に対する潔白の証明)

大村 「あなたのような人が奥州へ行っても勝てるはずがない、
    人を替えます」

    といって立ち上がる。(きょ、強烈な無慈悲さ!)
    隊長は結局大村のいう金額を受け取り出発した・・・(哀!)。

エピソード3 その実践的思考法とは?!

壬生城(京都)付近の戦闘。戦況がおもわしくなく、
前線からはしきりに増援を要請してきていた。

長州中隊指令楢崎頼三は我慢極まり、ついに大村に直訴します。
楢崎 「(官軍が兵力不足による苦戦情況を述べ、)
     足下は前線を知らぬのだ!我々は朝九時から午後四時まで
     小銃を撃ち続けているありさまである!」

大村 「君、うそを言うてはいけん」

楢崎 「(鞘ぐるみつかんで立ち上がり)今何と申した!」

大村 「小銃というものは、三、四時間も連発すると、手も触れぬほど
    銃身が焼けてくるものです。それを朝九時から午後四時まで
    連発したという。それは嘘です。うそでないというなら、
    ここで君が四、五時間も連発してみなさい。できるかどうか。」

楢崎 (ひとまずあやまり)「ただ、弾薬だけでもほしいのだが・・・」

大村 「まだ兵一人に二百発づつあるというではないか。
    それだけで大鳥軍を十分撃退できます。」

事実そのとおりになった。(しかし・・・)

エピソード4 近代軍師現る!

彰義隊討伐。大村以外の参謀は夜襲を提案していたが、
大村は江戸の市街に火をつけられることを懸念し夜襲案を避け
午前中から作戦を開始させた。
午後一時、佐賀藩にアームストロング砲の用意を要請、
撃つ場所、発数(5発づつのみ)など細かく指示した。

午前中の苦戦を聞き、若い参謀は口々に
「やはりわれわれが主張したとおり最初から夜襲でいくべきだった!
いったいどうなさるおつもりです!」
と櫓にいた大村に詰め寄った。

大村 「(時計をみて)それほどご心配なさるにはおよびません。
    もう片付きます」

おりから上野方面に黒い煙があがりはじめた。

大村 「皆さんこれで始末がつきました。いまあのように
    火がえんえんとあがっているのは、賊が山に火をかけた
    証拠です。山に火をかけたというのは、いま逃げたぞ、
    というしるしです。つまり賊は総退却したのである。」

そのうち騎馬伝令が上野からかけもどってきて
「官軍勝利」と触れ込みながら城内に入った。
(沈黙する若い参謀達の光景が見えてきそう・・・)

エピソード5 予言的中!

 司馬さんは大村益次郎は、日本史が持つことのできた、数少ない軍師で
あったと分析しています。大村益次郎なしで官軍は勝利することができた
でしょうか?

 大村は大阪の地で、薩摩藩(味方!)の海江田信義の手引きによる刺
客に襲撃されます。この時の負傷により大村は他界します。この海江田
はかつて大村に随分辱められ、猛烈な殺意を抱いていたと言われています。

 大阪入りの理由は、この維新の後に必ず九州方面から反動がおこると
予想し、その反動の鎮圧のための軍事施設の設計を指揮するためだった
のです。

 そして事実西南戦争をはじめいくつかの反動がおき、この大阪の施設が
役に立つことになります。

 

大村益次郎

アームストロング砲