しゅうかん
     えん
最終更新日 2002/04/06

ぱっと読める人が少ないと思われるこの名称、ここは寺泊のあかね通り商店街に面する史跡公園で、
もともとは五十嵐氏の邸宅跡でした。
五十嵐家は佐渡への玄関口としての宿場町の総元締めで
千年の歴史を持つ家系ですが、戊辰戦争で家財を没収され没落します。

写真はないですが、良寛の妹「むら」の墓もあります。
良寛はむらの採ってくる海苔が大好物だったといいます。

順徳天皇に関する史跡は全部で4点です。
行宮御遺跡(壁紙)
御駐蹕遺跡記念碑
歌碑(三首)
越浦神社(御祭神順徳天皇)

順徳天皇はこの寺泊で風待ちのために数ヶ月御逗留
され、佐渡へ向かわれたと言われています。


宮廷歌人藤原為兼は
鎌倉時代に佐渡に流罪となりますが、
その際にここで37日間船待ちのため滞在します。

佐渡には5年滞在し、その後許され京に帰ります。
この歌碑は遊女初君に対し詠まれたものです。

義経一行の逃避行中に、
ここ五十嵐家にも滞在したということです。
浴室の跡と、弁慶が掘ったと言われる
手堀の井戸(写真)があります。
五十嵐伊織の墓です。

五十嵐伊織は越後では珍しい勤皇志士で
戊辰戦争で転戦し、京都でなんと大村益次郎の
暗殺に参加し、処刑されます。

五十嵐伊織については
司馬遼太郎著「花神」には登場しません。
大森子陽の墓です。

良寛は11歳から17歳まで分水町地蔵堂の
大森氏の狭川塾でに入学びました。
寺泊の総鎮守である白山媛神社です。

名前のとおりご祭神は白山神社と同じ
菊理媛命です。
北前船の船絵馬(重文)があります。

日蓮・硯水の霊井です。

ここは厳密には元石川邸のあった所です。
日蓮は佐渡へ向かう際の風待ちでここに7日間滞在し、
このとき千葉の弟子に書状を書いたと言われています。

この書状をしたためた際の硯の水を汲んだ井戸がこの史跡です。

書状は「寺泊御書」といって宗宝に指定されています。


三島郡寺泊町

 

越後の歴史探訪観光案内所