むらかみ
     じょう
最終更新日 2002/04/27

現在、村上城の石垣はかろうじて残されて
いるので、想像の中でなら「舞鶴城」と言
われたその城郭を思い浮かべることも可能
です。この城は別名「本庄城」「臥牛山城」
ともいわれています。

もともとは鎌倉時代に頼朝から任命された
地頭職の居城でした。謙信の時代には本庄
繁長が城主を務めましたが、本庄氏は武田
信玄に内通するので、謙信軍の攻撃にさら
されます。しかしながら信玄の応援はなく
ついには降伏してしまいます。
その後関ケ原の二年前に、村上勝頼により
整備され、(これが「村上」という名称の
ルーツ?)さらにその後堀氏により近代的
な城郭に仕上げられます。

幕末の内藤家時代は5万石で、北越戦争時では、一旦奥羽越列藩同盟に加わります。
しかし藩内は抗戦派と恭順派に分かれ、抗戦派は官軍の侵攻時に庄内藩に退避します
が、恭順派は庄内藩侵攻の先鋒を努めさせられます。つまり、それぞれの派は敵味方
に分かれて戦ったのです。
これが官軍の常套手段で、長岡藩の河井継之助が、官軍に
恭順しなかった理由の一つです。河井継之助は会津の先鋒となることを官軍から要請
され躊躇したのでした。


村上市

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