たかだ
    じょう


家康六男松平忠輝が、福島城(直江津)から移るために
慶長15年に築城、当時は越後一円が領地で
一時は75万石もありました。

春日山城→福島城→高田城と
この領地を支配する城郭は移り行くのですが、
二代目酒井家次時代にがくんと
10万石に減るという数奇な運命に見舞われます。


高田城は、花見で有名な高田公園の
敷地の中ににあります。
長岡城、新発田城と同様平城でしたが、
天守閣の代わりに三重櫓がありました。

上越市20周年事業として平成6年に
その三重櫓が複製されました。
中は展示館になっています。

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高田城と幕末

幕末時期の城主は榊原氏です。榊原氏を祀った榊神社はすぐ近くです。

幕末の幕長戦争(芸州、現在の広島)では、嫌がる芸州藩のかわりに
幕府軍の先鋒として彦根藩(井伊)と高田藩が、遠国の地で戦に及びます。

しかし長州軍の近代的軍師大村益次郎に快勝させるに至ります。
この幕長戦争での長州軍の兵装は、勝海舟をして「カミクズヒロイ」
のような格好であったといいます。

一方、榊原軍は200年前の戦国風の具足(鉄の胴丸に鉄の笠、個々の背には旗指物)でした。
井伊軍といえばもちろん「井伊の赤備え」という戦国の世の武田軍そのものの様相で、
ともに法螺貝を吹き鳴らし、陣鉦をたたき、火縄銃を装備し、三倍の人数で長州軍に臨んだものの、
欧米の最新銃で装備した長州軍に古今に例がないほどの敗状で圧倒されてしまいました。

榊原軍・井伊軍は奔走し、逃げ回り、陸地も川も死体で埋まったと言われています。

榊原家は、その後戊辰戦争で官軍側につき、高田城は総督府の駐屯地として利用され、
北越戦線を迎えます。当然官軍の常套手段により、長岡藩進撃の先鋒を努めさせられます。


上越市本城町

越後の歴史探訪観光案内所