最終更新日  2002/10/21

人物 順徳天皇
時代 鎌倉時代
越後との関連性 佐渡に流罪
 
 

「承久の乱」コース

真野御陵(佐渡)

真野宮
(佐渡)

佐渡歴史伝説館(佐渡)

順徳上皇第一皇子の墓
(佐渡)

順徳天皇第三皇子の墓
(佐渡)

慶宮寺
(佐渡)

黒木御所
(佐渡)

二宮神社(佐渡)

天領の里(出雲崎)

聚感園
(寺泊)

国上寺
(分水)


 
参考書籍

 井沢元彦著 『逆説の日本史5中世動乱編』小学館文庫 

 この本ほど承久の乱の本質を分かりやすく解説した本はおそらくないと思います。

 さらに、順徳天皇と言えば、シリーズの2巻「古代怨霊編」では名前に「徳」の字のつく天皇ということで触れられています。

 「徳」や「崇」の文字の意味するものとは?!そして驚くべき推理に至ります。

 司馬遼太郎著『街道をゆく10佐渡のみち』 朝日文庫

 順徳天皇が流された当時の話や、皇子のことが書かれています。
 林 直道著『百人一首の秘密 驚異の歌織物』青木書店

順徳天皇の歌も収録されている藤原定家の「百人一首」ですが、実は意外な真実が隠されていたようです。ネタバレしないためにも内容は秘密です。佐渡の位置をも示すこの不思議な歌集の謎を解き明かします。

 
承久の乱
 この乱の首謀者は後鳥羽上皇でした。この上皇は、天皇より自由な境遇の上皇にさっさと自ら就任し、自分の子の順徳天皇、土御門天皇を天皇にして、天皇の名のもとに自由に権力を奮います。

 後鳥羽上皇は、鎌倉政権を快く思わず、承久3年に、北条義時討伐の院宣を下し、近畿、西国の武士に檄を飛ばします。これが承久の乱です。

 この乱の後にも先にもない特徴として、天皇家と天皇家以外の戦争であったことをあげられることができます。

 しかし坂東武者軍団は強く、官軍は敗れてしまいます。ちなみに国上寺は天皇側につき、住職が流罪になります。

承久の乱の戦後処理
 この乱によって後鳥羽上皇は隠岐島(島根)に、順徳上皇(乱の直前に上皇になりました)は佐渡に、土御門上皇は土佐〜阿波に流罪となりました。

 順徳天皇は御年25歳でした。
寺泊に数ヶ月滞在した後に佐渡に行かれ、佐渡の地でお隠れになります。

 この乱のあと、義時の息子の北条泰時は御成敗式目を発布します。この御成敗式目により、事実上の武家政権が確立されたことになります。