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最終更新日 2005/03/01
人物 | お弥彦様 |
時代 | 大和時代 |
越後との関連性 | 野積浜に着岸 |
「伊夜比古伝説」コース |
妻戸神社(寺泊町) 聚感園(白山媛神社)(寺泊町) 弥彦神社(弥彦村) 乙子神社(分水町) |
参考書籍 |
![]() 宮尾登美子著『蔵』毎日新聞社 |
![]() 大森利憲著『峰の櫻』野島出版 |
伊弥比古伝説 |
着岸伝説 |
お弥彦様のことが初見するのは元禄元年(1688年)の「伊夜比古神社記」です。したがって比較的新しい資料のようです。
お弥彦様は寺泊町のはずれの野積浜に着岸し(お弥彦様御上陸の地)、弥彦神社の前身である大宮神社を建て、ここを含む一帯をお弥彦様の住居としたとそうです。この神社の周辺には今でも字の書いてある石が落ちていたりします。私が見た文字は「身」と「道」でした。 お弥彦様と同居した家は、キンゴロウ、タイコウサン、ゲンスケであり、現在、3家はそれぞれ、民宿まつや、民宿太幸、旅館のぞみ温泉として続いています。お弥彦様は彼らに航海と漁の技術を教えたために尊敬をうけました。 現在大宮神社はキンゴロウが管理し、祭祀は寺泊の聚感園のところにある白山媛神社(大宮家)が担当しているということです。 |
八百比丘尼(はっぴゃくびくに)の伝説 |
お弥彦様は上記三家を招き、帰りに一人一人土産を渡した。その土産には異様な色彩の肉が入っていた。タイコウサンとゲンスケは気味悪く思い捨ててしまった。キンゴロウはとりあえず持って帰った。キンゴロウの娘(18歳前後?)が知らずにその肉を食べた。その後その娘は歳をとらず、何百年もその姿のままだった。その肉とは人魚の肉であった。死ねない娘は若狭(福井)に行き、空印寺で出家し比丘尼となった。その後断食し、800年の生涯を閉じた。 今でも若狭の空印寺では八百比丘尼を祀っているわけですが、ここでは寺泊とはどういう関係もないような説明をしています。なぜなら、八百比丘尼の話は全国的にあるそうなのです。 旅館まつやに現存する「八百比丘尼手植えの松」は、生家を出る時に植えたものだそうです。 |
妻戸神社の口あけ石 |
お弥彦様は野積浜のおヨネ(オツマサマ)と結婚し、12人の子をもうけます。それで嫌になって(?)身を隠そうと弥彦山へ登りますが、途中で木こりに会います。お弥彦様は木こりに、弥彦山に行ったことを口止めします。しかし、追ってきたおヨネに問い詰められます。木こりは口を開けたまま喋ることができず石になってしまいます。この石は妻戸神社のご神体の「口あけ石」「妻問石」といいます。
でもご祭神は木こりではなく、オツマサマです。しかもお弥彦さまではないのに、漁師の神さまのようです。 |
片目神伝説 |
お弥彦様が山へ行ったら夕立がきて、あわをくってウドに目をつつき片目となった。それでお弥彦様は弥彦山のウドを絶やした。 |
塩たきの伝説 |
シーサイドライン沿いに「女釜・男釜の洞窟」があり、(お弥彦様御上陸の地?)ここでお弥彦様は塩たきをしたそうです。伝説では、或る日、お弥彦様が塩たきをしていると夕立が降って来たので、怒って雷様を叱った。だから弥彦付近は夕立もなく雷も落ちないと言われています。 塩たきは戦後まで寺泊の大事な産業で、海水から塩を精製する作業です。寺泊の遊郭では「塩たき節」という曲が唄われてきました。塩たきの風景を唄った唄で、労働唄ではありません。 |
口がきけなかったという伝説 |
お弥彦様の息子は口がきけなかったそうです。大宮神社の御祭神は息子の方とも言われています。しかし、弥彦神社境内の武呉神社の祭神天五田根命が長男という伝説もあります。 |
船山神社の伝説 |
ご祭神が船で来られたとき、ここ(玉神屋敷)に櫂を埋めたと言われています。社地の片平山の麓にある石を持って帰ると祟りがあるそうです。しかし、船山神社の御祭神は三代目天忍人命となっています。 |