東大寺
東大寺の大仏殿です。
ちなみに、現在 日本で2番目に大きい大仏殿です。なぜなら
越前大仏の大仏殿の方がわずかに大きいからです。


大仏殿が完成したのは789年です。
しかしながら、1180年に平重衝によって、1567年には松永
久秀によって伽藍が焼失しました。
現在の伽藍は1709年に再建されたものだそうです。

平重衝は平家滅亡とともに源氏の捕虜となり奈良で斬首され
ました。松永久秀は信長に攻められ火薬に火を点じて自爆し
て果てましたが、その日が東大寺を焼いた十月十日でした。
当時、この二人の死は大仏の仏罰というように受け止められ
たりしました。

大仏です。752年に開眼供養が行なわれました。
ということは大仏殿は37年後にできたわけです。
ちなみにこの大仏は日本で2番目に大きい大仏です。
越前大仏の方がわずかに大きいからです。


ところでこの大仏ですが、当時世界最大の金銅仏であり、当
時としてはまさにハイテクだったわけです。
建立したのは聖武天皇です。聖武天皇はほかにも全国に国
分寺と国分尼寺を建立するというビッグプロジェクトを行って
います。
何故こんな壮大なことをしなければならなかったのでしょうか


正面の門のところで皇室の紋章を見つけました。


この当時は仏教といってもまだそれほど民衆に支持されてい
たわけではないですから、これらの大事業が、大勢の仏教徒
からの願いで行われたということではありません。

聖武天皇の皇后は藤原不比等の妃の光明皇后で、史上初
めて皇族ではないのに皇后になった女性です。実は国分寺、
国分尼寺、東大寺、大仏の造営という大事業は光明皇后の
勧めで行われたのです。(続日本紀)

南大門です。
鹿が静かにしています。


聖武天皇と光明皇后の間には基王という子ができましたが、
1年後に死んでしまいます。この二人の間には男子が誕生
しなかったため、皇位継承の大きな問題となります。

実は聖武天皇には安積親王という男子がいたのですが、こ
の安積親王は明皇后の子ではありませんでした。 そして安
積親王は何と17歳で急死してしまうのです。

すぐ近くで鹿せんべいを販売しています。
しかしながら、以前宮島で鹿せんべいを購入したとたん、鹿
にとり囲まれてかなり焦った経験がある私として」は、今回は
鹿せんべいを購入する気持ちをこらえるのでした。


この安積王の急死の背景には、元正太上天皇が藤原氏色を
排除しようと難波遷都を画策したことにありました。藤原氏は
安積の死でもって難波遷都なぞ必要ないと回答したわけで
すね。

結局聖武天皇は、光明皇后が先に産んでいた基王の姉の安
倍内親王を皇太子に指名するのです。ちなみにこの安倍内親
王があの称徳女帝となるわけです。

二月堂です。


聖武天皇政権の左大臣長屋王は安積親王に継ぐ非藤原氏系
の皇位継承者でした。当然藤原氏としては邪魔な存在というこ
とになります。そして長屋王は謀反の罪で自殺させられてしま
います。自殺に追いやったのは藤原四兄弟です。

藤原氏は安倍親王と長屋王を葬り去ったことになります。恐る
べき人達です。

二月堂に登りました。


ところが何ということでしょう、この四兄弟は天然痘にかかり、
わずか四ヶ月の間に次々と急死するのです。
「これは安積王、長屋王の怨霊のタタリだ」と、衝撃を受けた
光明皇后が、聖武天皇に対して全国に国分寺と国分尼寺の
建立を勧め、続いて東大寺と大仏の建立を勧めました。

これが大事業の背景だったのです。

二月堂から見た三月堂です。


しかしながら、大仏によっても長屋王の怨霊に勝利することは
できませんでした。東大寺、大仏、国分寺、国分尼寺の建立を
もってしても、聖武・光明夫妻は男子に恵まれず、ついには次
の称徳女帝で持統王朝は断絶してしまいます。
つまり、奈良の大仏は怨霊神に敗れたことになります。

四月堂です。不勉強な私は二月堂以外に、三月堂、四月堂が
あることを知りませんでした。


この時、もう二度と皇位に返り咲くことはないと考えられていた
天智系の桓武天皇に皇位が転がり込んできます。

桓武天皇は大仏建立後30年ほどしか経っていないにもかか
わらず、東大寺を平城京ごと捨ててしまいます。
桓武天皇にとっては、呪われた都を一刻も早く捨て去ることが、
重要だったわけですね。

このページの参考資料は井沢元彦著「逆説の日本史2」(小学館文庫)

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