興福寺と春日大社

興福寺の五重の塔です。


藤原氏の氏神は春日神社で、氏寺は興福寺ですね。
興福寺は官寺以上の扱いを受け、春日大社は国家大社
並みの扱いを受けています。
興福寺と春日大社、セットと呼べるこの地続きの二つの
寺社を考えてみます。



北円堂です。

養老四年、不比等が死んだ後に、不比等の娘の光明皇后
は北円堂を建て、不比等の霊を祀りました。

以来、八角堂はすぐれた人間の墓となりました。
藤原仲麻呂も父武智麻呂の死後栄山八角堂を造って祀り
ました。

ということは法隆寺の夢殿は誰の供養堂なのでしょうか?
夢殿は聖徳太子の死後建てられています。

脱線してはいけないので、次に行きます。
敷地内には三重の塔もあります。

奈良の4大大寺と言えば大安寺、薬師寺、元興寺、興福
寺です。このうち興福寺を除く3つの寺院は由来は明らか
で、飛鳥の地から移転してきました。しかし興福寺だけは
由来が明らかではないのです。

ちなみに飛鳥の4大大寺は飛鳥寺(法興寺)、川原寺、大官
大寺(大安寺)、本薬師寺です。

川原寺は昔、一時弘福寺(ぐふくじ)と呼ばれています。
もし、川原寺が平城京の遷都以降興福寺となったとしたら、
4大大寺の一つがいつのまにか藤原氏の氏寺になったと
いうことができますね。
不比等の建てた中金堂は再建計画中ということで、柵の中
です。この建物は仮金堂と言います。



この中金銅が興福寺の中心であり、平城京に遷都した年に
建てられました。不比等は驚くほどの早業で、奈良の都にま
ず興福寺を造ったのです。

藤原氏はこのあと三大寺の移転を成功させます。


春日大社の一の鳥居です。興福寺から見ると道路を挟んだ
反対側にあります。

春日大社です。


平城京の前の都は藤原京ですが、藤原京には大和三山があ
り、付近には三輪山や天香具山があります。
不比等は平城京遷都の際に、このような古来の神の棲む山を
必要としたのではないでしょうか。

しかし藤原氏はこの地方に氏神を持っていません。
中門です。この奥に本殿があります。

春日大社のご祭神は国譲りのタケミカヅチです。春日大社の
敷地は三笠山の麓ですが、実はこの三笠山にはももともと土
着の神の榎本の神がいました。
榎本の神が「あなたに差し上げましょう」と三笠山をタケミカヅ
チに差し出したという話が残っています。

東大寺の正倉院の中に756年の境内図があり、この段階では
まだ春日大社は書かれていませんでした。おそらくまだ榎本の
神ががんばっていたのでしょう。しかし榎本の神はいつのまに
か追い出されてしまうのです。

そして藤原氏は、この新しい都に氏寺・氏神両方を持つ(という
か奪取)こととなるのです。
ここで春日大社のパンフレットを見てみるとに榎本明神が載っていますね。
この榎本明神こそ追い出された旧豪族だったのかもしれません。
春日大社が願い事を叶えてくれないとき、「ツンボ春日」と言って、榎本明神の門を叩くとよいそうです。
これは榎本明神には頭が上がらないという伝説かもしれません。
天武王朝が途絶え、桓武天皇によって平安京に遷都された後も藤原氏は、天皇家に上手く取り入り、栄
華を極めます。
藤原氏は、天武天皇の前には天智天皇の腹心として大化の改新を成し遂げ、壬申の乱以降は天武天
皇につき、遷都後は再び天智天皇系の桓武天皇につきました。

隣接する春日大社神苑は藤で有名です。
それにしても藤の花ほど藤原氏にふさわしい花はないかもですね。
高貴な色である紫色の美しく風格のある花を咲かせ、木に絡みついて生長します。

←パンフレット

このページの参考資料は梅原猛著「隠された十字架」(新潮文庫)

奈良散歩トップ