すわ
   たいしゃ
大社
最終更新日 2002/04/21

御柱神事(壁紙)で有名な諏訪大社は信州一
の神社です。越後が弥彦の国という場合、信
州は諏訪の国と言います。
諏訪大社は、諏訪湖をはさみ上社(本宮、前
宮)下社(春宮、秋宮)と分かれています。
祭神の建御名方神は大国主の命の次男で、国
譲りの際にタケミカヅチとの勝負に敗れ、信
濃の諏訪湖まで逃げ、恭順します。必至に命
乞いし、今後一切諏訪を出ないことを条件に
許してもらっています。

これはにわかに信じがたいですが、越後の
奴奈川姫像
の足にしがみついている子供の像
は建御名方であるというのです。確かに大国
主のせがれであれば、妻であった奴奈川姫の
子であっておかしくはありません。越後の青
梅から諏訪までは、南下すればたどりつける
わけですが・・・
法華寺と織田信長のこと
法華寺は本宮に隣接した寺院で、信長は信玄の子の勝頼討伐のために諏訪に入り、
ここを本営とします。そして勝頼を追い詰め自害させます。また本宮を焼き討ち
したり、
恵林寺では150人の僧を寺ごと生きたまま火あぶりにしています。
このとき焼かれた僧の快川は「心頭を滅却すれば火もまた涼し」というのちに有
名となった言葉を残します。

そして法華寺では、論功行賞で皆が集まっているときに明智光秀が「知恵をしぼ
り、勇気を振るって骨を折ったかいがあった」と述懐したのを偶然きいた信長は
「おのれがいつどこで骨を折り、武辺を働いたか」と怒り、高欄の欄干に光秀の
頭を離しては打ち続けるという恐怖と屈辱を与えます。そして、このあとすぐに
本能寺の変が起きるのです。
(司馬遼太郎著「国盗り物語4」)




長野県諏訪市中州宮山一

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